矢田わか子 | 参議院議員  民進党参議院比例区第8総支部長

エッセイ

矢田わか子物語

──国政への挑戦を決意した日

第1話「決意」

悩みに悩んだ。最後に私の背中を押してくれたのは...

▼続きを読む

その夜も息子に申し訳ないとは思いつつ、仕事がなかなか片付かなかった。夏に副委員長に就任したが、それ以降、担当分野が広がり、さらに忙しくなったと実感する日々を送っている。

帰宅が遅くなり、息子を預かって頂いている近所のお家に迎えに急ぐ。夕食はすでに終わり、今夜はお風呂まで頂いていた。夫は結婚当時より、大半は単身赴任。息子の育児は、母親や妹のみならず、近所の方々に支えられてきた。

時に宿泊を伴う出張時のお泊り保育、急な発熱時の病児保育までお世話になり、この間のご協力なくして仕事との両立はあり得なかったと改めて感じている。

翌朝もいつもと変わらず、バタバタと息子を小学校に送り出し、家を出た。

大阪府門真市。京阪電車の西三荘駅から5分程度の場所に、私が通うパナソニックグループ労働組合連合会、通称PGUの本部はある。この職場まで40分かけて通勤し15年になる。

事務所に入ると廣田委員長から声をかけられた。「今朝、少し時間とれる?」担当している仕事の進捗状況の確認かと思い、昨晩仕上げた資料を携えて委員長室に向かった。

ドアを開けた瞬間、なんとなく、委員長の雰囲気がいつもと違った。直感的に身構えた。昔から、こんな予感がする時はろくな事がない。

私が席に着くと、委員長は神妙な面持ちで話し始めた...。

予感は的中した。この時、初めて、組織内公認候補として参議院へ挑戦してみないか、という旨の打診を受けた。まさに、寝耳に水の状態だった。

「本気ですか...?」

「私にはそんな大役は務まりません」、「もっと相応しい人がいるのではないでしょうか?」、「私が担当している今の仕事はどうなるのでしょうか?」、いやそもそも「子どもをこれ以上一人には出来ません!」と、思いつくままに口から言葉があふれた。

誰がその場で、すぐに「はい」と言えるだろうか。そもそも国政を目指している人であればわからないでもないが、そうでなければ、青天の霹靂、誰しもがそんな心境になるだろうと思う。

「少し、時間をいただけますか?」

それだけ言って部屋を出るのが精一杯だった。きっと顔はこわばり、声も震えていたと思う。

自分の席にどう戻ったか記憶していない。周りの方から「顔色が悪いけど、どうかしましたか?」と聞かれた。

それから1カ月。まずは夫、息子。そして母、兄、弟、妹。父は他界しているが、仏前に向かって相談した。母や妹は、何よりも私の心身や息子のことを心配し、「とんでもない!」と真っ向から反対した。宿泊出張や帰りが遅くなること、世間への露出による息子の気持ちなど、肉親として心から心配してくれた。

一方、息子と話す時間を持ったときの事。小学6年生で、多感な年齢に差しかかる頃であり、始めは戸惑った様子であったのが、次第に表情も固くなり、そして「どうせお母さん、もっと家におらんようになるんやろ?そんなん、もういやや!」という叫びにも近い言葉が出た。これには、さすがにこたえた。

仕事の関係者への相談は限定された。それでも、一部の方々に相談すると、「矢田さんは、今、公人になろうとしている。これまで、組合の中で社会に貢献したいと必死に頑張ってきたが、議員になれば、より大きな土俵でより広い世界で、想いを実現できるのではないのか?」

そして、最後には、みんな必ずこう付け加えた。

「そうなったら、全力で応援するからな...。」

少し背中を押していただいた気がしたが、「私にそんな大きなことが本当にできるのか...」という不安はなかなか消えない。

別のある日、テレビで政治の番組を見ていた時。司会者であるキャスターの問いかけに対する出演議員の返答を聞いていたが、さすがの返答。思いも政策もどっしりしている。

当然、今の自分にはそこまでのことは言えない。そういうやり取りが続くにつれ、心臓が高鳴り、汗が吹き出てきて、足がガタガタと震えてくる。

「やっぱり私には無理だ...」

少し前向きになりかけた気持ちも、また引き戻される日々だった。

週末、夫が東京から帰ってきてくれた。「重要な相談がある」と私が帰ってくるようお願いしたのだ。

自宅での時間はくつろぎたい貴重な時間なのだろうが、夫は、一大事と思ってくれていたようで、私の話をゆっくりと聞いてくれた。

委員長からの打診と、そのときの委員長のお考え、そして相談した一部の方々の教え、そして何より自信を持てないでいる私の気持ちも。一方的に話すこととなったが、真剣な面持ちで聞いてくれた。話を聞き終わった時、夫が発した。

「結婚前からこれまで傍らで見てきて初めて言うけど、君はいつも周囲の皆さんに支えられながらも、新たな世界を自ら切り拓いてきたじゃないか。君の信じたことへの挑戦なら、僕は協力するよ。」

それを傍らでじっと聞いていた息子まで、「僕も協力するよ。お母さんが頑張れるよう、心配しないよう、僕も勉強頑張るし、自分のことは自分でやるから。」と。

息子は不安で一杯にも関わらず、私のことを必死に理解しようとしていてくれていた。

自然に涙が私の頬を伝った。

いつも、息子に言い聞かせてきたことの一つに、「何事にもチャレンジする。チャレンジしないで諦めたら、その時点で成長は終わってしまう。」という言葉がある。この言葉を思い出した。

「私はチャレンジする前に諦めてしまうのか...。いやそれはできない。」

気持ちはようやく固まった。

第2話「政策に込める想い」

私の挑戦。その意味は、...

▼続きを読む

早速、関係先や加盟単組への挨拶回りなど、全国巡回が始まった。

ある日、私が組合役員になる前に所属していた職場の先輩の皆さんが、私の挑戦のことを聞きつけ集まってくれた。その中に、すでに定年退職をされた元人事担当のA先輩もお越しになっていた。その先輩は私にとって、本当にかけがえのない人である。

学生の頃、私の家庭は経済的に非常に苦しかった。高校進学こそさすがに、「高校くらいは、何としてでも出してやる。」という父の強い勧めや周囲の方々からの支えもあって、入学が叶った。

以来、弁護士になるという夢を叶えたいと勉学に勤しんだが、その一方で5人きょうだいの2番目ということもあり、両親に負担をかけまいと、また妹や弟には学費の心配をさせたくないと、奨学金制度の助けを受けつつ、放課後はいくつかのアルバイトをして学費と一部の生活費を稼いだ。

それでも、父の病いは年を重ねるごとに悪くなり、高校3年の進路について担任の先生から問われた頃には、経済的に大学にいける余裕は全くない状態だった。それでも父は病床から、「お前一人にそんなに迷惑をかけるわけにはいかない。何とかしてやる。だから...」と言ってくれた。

嬉しかった。本当に嬉しかった。でも、...。

「先生。私、大学には行きません。」

きっぱりと告げる言葉とは裏腹に、我慢できずに涙が溢れた。

先生は、そのような私の境遇を親身になって理解し、就職先について一生懸命考えてくれた。そして、自宅から通勤できることに気を配りつつ、創業者である松下幸之助の生い立ちなどを話し「誰にでも教育の機会がありチャンスを与えてくれる会社だから」と勧めてくださったのが松下電器であった。

そして、先生が会社と話を進めてくれた相手の方が、当時、人事担当で採用にも関わっていたそのA先輩であった。

先生の思いのこもった推薦の言葉を聞いたA先輩は、「家族思いで、頑張り家。そして先生、何よりあなたの心をも動かせる人。そんな人材を、我が社は必要としている。我が社に是非とも来ていただきたい。しっかりと育てることを約束する。」

会場に入り私の顔を見るや否や、そのA先輩が、私のところまで歩み寄って来た。

そして、当時を振り返り、「あの時の高校生が、国政に挑戦するまでになったのか。俺の目は間違ってなかった。」と溢れ出る涙を隠しもせずに、そして、「僕は君のこれまでを見てきた。君にならできる。」と、私の両手をぎゅっと握りしめた。

その瞬間、苦しかった学生時代のことがフラッシュバックのように思い出され、気がつけば、私も涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。そして自分のような辛い思いを今の若者にさせたくないという思いがつのってきた。

『子どもが家庭環境に関わらず、等しく教育を受けられる社会をつくりたい。』この政策が、一つ目の柱になった。

また、巡回していたある日のこと。とあるパナソニックの事業場を訪ねた。

組合役員・委員集会で、支援をお願いすべく一方的に話したあと、参加者の一人が私の方に歩み寄って来た。

「矢田さん、その節は大変お世話になりました。おかげさまで、元気に頑張っています。」

その方のお顔を見て、10年程前の記憶が蘇ってきた...。

その工場は、業績不振で存続の危機を迎えていた。そして、工場閉鎖の噂がまことしやかにささやかれる状況となっていた。

そんな中、当時松下電器労組の中央執行委員として、その支部を担当していた私が、職場委員との対話会で工場に赴いた日の出来事。対話会の会議室に向かおうとしたとき、当該支部の組合役員の皆さんが待ち構えており、委員長室へと導かれた。

「矢田さん、労働条件を切り下げてでもこの工場を残したい。今日はその相談にのって欲しい。」

状況は、ある程度は理解しているつもりだった。しかし、すぐに業績を好転させるような特効薬など、簡単に見つけられるはずも無い。また、改革はそれを打つタイミングによって、より大きなダメージにもなり得ることを過去から学んでいた。

「私に何が出来るのだろうか?」そんな不安が頭をよぎった。

「工場を残すためにはどんな痛みを伴う改革であっても、受け入れざるを得ないし、その覚悟もある。組合員にも分かってもらえるためにも協力して欲しい。」委員長は声を震わせ、切々と私に訴えた。

彼らの「何としてもこの地に工場を残したい」という心からの叫びに、私の心は震えた。

組合本部に戻った私は、早速当時の書記長に訴えた。

「この対応に全身で向き合いたい。それが出来ないのであれば、組合役員をする意味など無く、執行委員も辞める覚悟です。」

最初は、戸惑っていた書記長も、「当該支部といっしょにしっかり頑張りなさい。」と理解を示してくれた。

以降、会社との協議、組合員への説明、労働組合内での合意形成。当該支部と一緒に奔走した。

私にとって忘れることの出来ない、大切な記憶だ。

「矢田さん、あれからいろいろな改革がありましたが、矢田さんと一緒になって頑張ったあの時の事を思い出し、その都度みんなで協力しながらできる限りの手を尽くしました。その結果、多くの仲間が今も頑張っています。そして、多くの後輩も新たに仲間に加わりました。幸せですよね。心から、そう思います。本当に、ありがとうございました。」

巡回から数日後、その委員長と再び会う機会を得た。

政策への想いにあらためて気付かせてくれたことへの御礼を述べた。

すると、私の手をとり、

「あの時は、本当にしんどかった。苦しかった。だから、僕が弱音を吐いたときに、一緒に泣きながら、"何を考えてるの?何を言ってるの?あなたがやらなくて、誰がやるの?"って、目を覚まさせてくれましたよね。

そんなことまで、職場のみんなに話してしまっていました。

そうしたら、"矢田さんは誠実で信頼できる人だね。そんな人こそ、社会に必要なのではないかな?だから、今度は私たちの番。みんなで応援しよう"と言ってくれたのです。」

工場で働く皆さん一人ひとりが力を合わせたからだと言いたかったが、胸が熱くなりなかなか言葉が出ない。

「なんとしても、今後に活かして...」

と、携えた手にわずかな言葉を乗せるしか出来なかった。

職を得て、収入を得る。その収入で、衣食住はもとより、より多くのことを学び、生活を潤す趣味もする。生活の根源が「働く」ということにある、とあらためて感じた。

『誰もが安定した雇用の中で、やりがいを感じて、イキイキと働ける社会をつくりたい。』この政策が、二つ目の柱になった。

これまでも自身の経験から、働く人の将来への不安・失望・憤り、また経済的に苦しい環境下にある多くの子どもたちを何とかしたいという想いなど、社会に対するさまざまな課題意識は持っていた。が、今回の巡回時にいただいた組合員の声や、電機連合本部とのやり取りを通じ、実現していきたい政策が次々と固まってきた。

今も巡回中「この私に務まるのか?」と不安に思うときがある。

これまでの会社生活の中で、多くの女性社員や男性社員の声を聞き、やはり行動をおこしていくことが一番の早道と信じ、私自身も育児と仕事を両立するロールモデルとなり、その体験から会社の中でさまざまな制度の構築やしくみの変更などに取り組んできたことを思い出した。

こうした行動的な性格は、時に行き過ぎとお叱りを受けることもあったが、私が行動を起こすときにはいつも、周囲のメンバーがそっと見守ってくれていた。

そう、私には仲間がいる。多くの人に支えられている。

「矢田さん一人で、戦っているんじゃない。僕たちみんなの挑戦なんだ。」と言ってくれた時のことを思い出した。

本当に、嬉しかった。ありがたかった。

私は、なんとしてでも、この声に応えなければならない。

全国巡回。私の挑戦の日々は続く。

第3話「気力と体力」

私の心得、「一期一会」その全国巡回を始めて、早10カ月が過ぎた...

▼続きを読む

その夜は、いつもと少し違っていた...。

巡回先では、切羽詰まった、そして身につまされるような話をお聞きする。

中でも印象に残っているシーンが、昨晩はなぜか、ホテルのベッドに横たわった瞬間、再現映像のごとく鮮明に再生された。

「矢田さん、私の町では子どもたちが、6時台という朝早い時間に家を出て学校に向かうんです。なぜだか分かりますか?それは、子どもの数が減ったことで、小学校が合併になり、隣町の小学校まで行かなければならなくなったからなのです。おそらく、近隣に仕事が少ないことから、特に子どもを持つ若い世帯が仕事を求めて都会に出るからなのです。そうなると、産婦人科や小児科もなくなる悪循環。これがこの町の現状なのです。」

「私の妻も以前は働いていましたが、私たちの二人の子どもを預けていた保育所は、ごく普通の保育所で、夕方までしか預かってくれないし、熱が出たら、迎えに来てください、と言われます。子どもは心配ですが、仕事をしていたらどうしてもすぐに対応できない時もありますよね。結局、妻は難しい選択で心を痛め悩んだあげく、働き続けたいけれど『もう無理だ』と言って会社を辞めました。もう少し育児の環境が整っていればと思うと、本当に悔しい。」

「超少子高齢化によるさまざまな弊害が叫ばれていますが、私の親ももうすでに後期高齢者(75歳以上)になりました。社会としての支え手が少ない中で、親の介護をすることになったら、このまま働き続けることができるのか不安です。矢田さんは、電機産業の技術(家電、重電、情報・通信、電子部品、インフラシステム等)を介護分野に活用すること、例えば、介護・生活支援ロボットやICTの利活用等の可能性について示唆されていますが、さまざまな法の規制があると聞きます。是非、この様な規制を取り除いて欲しい。

こういったシーンの再生に繋がるほどに、これら切実な声は、何とかしなければならないという責務の念として、確実に私の心に留まっていた。

それを自覚すればするほどなぜか、皆さんのこの大きな期待に応えることができるのだろうか、という不安が覆いかぶさって来た。

どれだけの時間が流れたのだろうか。押しつぶされそうな感覚を胸の辺りに感じ、目が覚めた。

汗を拭って、深呼吸した。

悩んでも仕方がない。焦っても仕方がない。多くの仲間と共に、信じた道を走り続けることに専心する、これしかないと自分に言い聞かせ、改めて向きを変えて横たわり、きつくまぶたを閉じた。

朝起きると少し熱っぽい感じがしたが、おもんばかる暇もないほどに朝は忙しい。急せいた化粧で散らばった道具の後始末を終え、「ふぅー」と一息吐いた。そして、出発前の身支度で鏡に向かった私に、「大丈夫」と言い聞かせてホテルの部屋を出た。おまじない、なのか、気は持ちようと思っているのか。だが、この「大丈夫」という軽い掛け声は、今日ばかりは頼りにならなかった。

巡回の行程が進むにつれ、声はかすれ、寒気が増してきた。おそらく、これまでの疲れも手伝って、風邪を招き入れてしまったのかもしれない。

今日の予定はまだ続く。私のことを待ってくれている巡回先の皆さんに、「体調不良で...」なんて通用しない。

そんな事情などお構いなしに時は進み、まさに、夕刻の集会が幕を開けようとしていた。

会場の手前で入場のタイミングを計っていると、不安なことばかりが頭をよぎった。上手く話せるだろうか、そして最後まで身体がもつのだろうかと。迎えてくれる皆さんの期待を裏切るわけにはいかない、そう思えば思うほど不安でいっぱいになった。

が、気持ちを切り替える間もなく、入場のサインが来た。昨晩の出来事が、私の感情の一部を支配していたのだろう。足が震えだし、前に踏み出すことができなかった。こんなことは始めてだった。

どれだけの時間が経過したか...。

「どうしたの?」と傍らから声を掛けられ、我にかえった私は、これではいけないと思い立ち、息子の写真が入っている胸ポケットに手を当て「お母さん、頑張ってくるからね」とつぶやき、笑顔をチェックしてから扉を開けた。

主催者の挨拶などが済み、私の出番が来た。「働く」「暮らす」「育てる」の三つの政策の柱とそれらに込める私の想い、そして電機産業の可能性や社会的役割の大きさと、その発揮のために国政が取り組むべき法対応等の役割について、多少ふらつきながらも持てる力の限りを尽くして話をした。

しかし、不安は的中した。

締めくくりを迎える間際、頭が"ぼーっ"として床から足が浮いている感じがした。手を挙げて質問をしてくれた方が居られたが、その問いに対する的確な言葉がすぐには出てこない。大きく包み込むような感じで見解を返すことが精一杯だった。

その後、締めの手順を経て、夕刻の集会は終了した。

いつも以上に声がかすれ、苦しい、辛い表情を出してしまった。訳もわからないところで、感情的になった。訴えたい政策や伝えたいフレーズも一部抜けてしまい、何より、想いの丈を十分に伝えることができなかった...。取り返しの付かないことをしてしまった...。

ふらつきつつ会場を離れるその一歩ずつに呼応して、自分への悔しさが増幅され、堪らず涙がこぼれ落ちた。

今日泊るホテルに向かうべく帰り支度をしていると、この集会を企画してくれた皆さんが順に声を掛けてくれた。

「矢田さん、すごく、良かったよ。想いも伝わったと思うよ。」

「出席者が共感して、泣いてくれていた人も居たよ。僕もその姿を見て、泣けてきた。」

でも、私は、そんなことは無いはず、と首を横に振った。

すると最後に、「前を向いて行こう。明日は体調を万全にして、また頑張ろうよ。」と言ってくれた。

そう、私の変化をみんな分かっていたのだ。でも、私を励まそうと、やさしい言葉をかけてくれていたのだ。

私はその心配りに胸が熱くなり、思わず涙が溢れた。そして、皆さん一人ひとりに頭を下げた。

すると、「ちなみに、さっき言った、会場の反応はうそじゃないよ。」と、やさしく付け加えてくれた。

ホテルに戻ると、無性に息子の声が聞きたくなった。が、今日ばかりは、平静を装える自信はなかった。

「もしもし、...」。その声を聞いた途端、胸が詰まった。あなたの声は、どうしてこんなに柔らかく、温かいの⁈

そして、「お母さん大丈夫?風邪引いたん?」と心配そうに声を掛けてくれた。

もはや、(したた)る涙を止めることはできなかった。

でも、心配させまい。涙声を悟られないように注意して話した。

「今日ね、あなたの写真がお母さんを守ってくれたんよ...。」

私は、本当に多くの仲間や家族に支えられている。絶対に、負けない。

その夜は、やさしい夜だった。

第4話「焦りと感謝、そして決意新た」

「未来を変えてみせる。」仲間のため、家族のために...。

▼続きを読む

全国巡回の日々。

多くの人と出会い、目を見てそして手を握って一生懸命私の想いをお伝えしてきた。しかし、そんな時間も残りわずかになってきた。本当に月日が経つのは早い。だから、あと何人の方にお会いできるのだろうか、あとどれだけの機会があるのだろうか、と焦りが出てくる。

一方、連日の巡回、まさに移動と緊張感で相当に疲れもたまってきており、気力・体力ともに限界に近づいてきていると感じる。ただ、お会いした皆さんから受ける期待の大きさや、支援してくれている仲間のことを思えば、弱音など吐くことはできない。

今日1日の締め括りとなる職場集会を前に、「よし、もうひと踏ん張りっ。」と、気合いを入れなおした。そんな矢先。

「お腹が痛い。」と開始時間が迫る中で、スマートフォンのメール機能がその着信を告げた。

一度家を出ると何日も戻れないこともあり、「朝」、「夕方」そして「寝る前」の1日に3度、息子に電話やメールをすることを日課としている。いつもであれば、そろそろその「夕方」のタイミングであったが、巡回の行程によっては、多少のズレはどうしても起こってしまう。この日も、職場集会が終わってからかけようかと思っていた。

内容が内容だけに放っておくことは出来ず、急いで息子に電話をかけた。待っていたかのように電話に出た息子は、開口一番、「お腹が痛くて、塾を休みたい。」と言った。それに対し、私は出番が迫っていたこともあり、「どの辺が痛むの?」、「いつから?」、「薬は飲んだの?」、「熱はある?」と矢継ぎ早に問いかけた。状況を一通り本人の口から聞くと少し安心したが、やはり塾は休ませた方が良いだろうと思い、「塾の先生に、連絡しとくから...。」と言って、電話を切った。

程なくして、職場集会が始まった。

私の挨拶の中で、子育て支援にまつわる政策について話をしていた時、ある話を思い出し、それを披露することにした。

「とある学校に通っている小学校高学年のお子さんのことなのですが。その子のお母さんは一人親だけれど、仕事に出るといつ帰ってくるか分からないことが多く、それでも家には食べるものが少ないときもあって、そんなときはわずかな食材をきょうだいで分け合っている、と言います。たくましいなと思う反面、寂しいだろうし、心細いだろうなと思うのです。さまざまな事情があるのだろうとは思いますが、何とかできないものかと思ってしまいます。だからこそ、社会全体で子育てをしていく...」

この話をしながら、なぜか涙が溢れてきた。

そう、私自身が今この挑戦の中で置いている息子の境遇にシンクロした。そう、「寂しい」や「心細い」という言葉を発した瞬間、思考回路を経ること無しに、直感で紐づいたのだ。

さっきのメール。本当は、息子は私にかまって欲しかったのかもしれない。だって、寂しいはずだから。この4月からやっと中学2年生になった。一人っ子で、父親は単身赴任中。だから、私が家をあける間、基本は一人。朝食、夕食、夜間は私の母や妹、近隣のご家庭にお世話になっている。一人ではなくても、さびしくない筈は無い。電話をしたのだから、もっとゆっくりと話を聞いてあげれば良かった...。そんな後悔の念が頭を駆け巡った。

職場集会が終わり控え室に戻ってスマートフォンを手に取ると、息子からのメールの着信があった。

「少し休んだら、痛みも軽くなったから、塾、行ってくるね。心配かけてごめん。」

この1年間で、身長は伸び私を凌ぐ程に体格が大きくなった。そして、周囲の人や家族に対する姿勢も本当に成長した。でも、そのことに一安心していた自分がいた。

でも、繊細で未成熟な心は、まだ母親を必要としていたのかもしれない。なのに、私は、忙しさのあまり、そのことから目を背けてしまっていたのだろうか。

1日の巡回を終え、同行して頂いていた当該地区の仲間の皆さんとともに、宿泊先へ歩いている間、職場集会での一幕や私の暗い表情を察して、そっと一人にしておいてくれた。そのような中、スマートフォンが振動した。「家に着いた。」というメール文が目に飛び込んできた、皆さんが近くにいるにも関わらず、いてもたってもいられず息子に電話をかけた。電話に出た息子に、

「ごめんね...。本当に、ごめんね...。大丈夫やったの?偉かったね。」

でも息子は、私の想像以上に成長していた。

「大丈夫やで。謝ることなんて無いよ。『何事にもチャレンジする。チャレンジしないで諦めたら、その時点で成長は終わってしまう。』って、いつもお母さん、言ってるやんか。まだお母さん、チャレンジしてる途中やろ。僕も一緒にチャレンジしてるんやで。だから、大丈夫。最後まで一緒にがんばろうっ。」

私は、スマートフォンを耳に当てながら、息子に悟られぬように、口に手を当て涙声を押し殺した。ふと気配を感じ、周囲へ視線を移すと、親子のやり取りが漏れ聞こえたのか、同行いただいている皆さんが、潤んだ温かい目で見守ってくれていた。

そんな姿を見て、そして息子の言葉を聞いて、改めて誓った。

私の挑戦を支えてくれている家族、そして仲間。私の事を親身になって心配してくれているそう、悩み、苦しみ、怒り、哀しみ、喜び、楽しみ、笑いなど、私の心までも必死で理解しようと想ってくれている。

そして、改めてこの巡回期間に多くの仲間から頂いた切実なる声を思い出した。

「雇用安定に向けた産業活性を望む声」、「介護・育児をしながら働き続けられるかといった不安の声」、「子どもたちに等しく教育の機会を与えてあげたいといった声」、「一緒に働く非正規の方々の課題」、そして「長時間労働により家族との時間が持てないといった声」等々。

一人の声、小さな声であってもしっかりと耳を傾け、1日も早く国政に届けたい。

そしてまた、これまでに私にかけてくれた言葉を思い出した。

「全力で応援するからな...。」

「今度は私たちの番。みんなで応援しよう。」

「矢田さん一人で、戦っているんじゃない。僕たちみんなの挑戦なんだ。」

そう言って、電機連合を始め支援産別の多くの仲間が代弁者となり必死で支援の輪を広げてくれた。そしてこれまでに経験したことの無い向かい風の中、必死に支援を訴えて頂いた。

その事に改めて気付き、感謝の念とともに「未来を変えてみせる。」そう決意を新たにした。

未来を暗示してくれていると信じたい。そんな満天の星空を見上げて、頬を伝う涙を拭い、固く誓った。

「しっかり前を向いて進んでいく。最後の最後まで。未来を変えるために。そして、仲間のため、家族のために...。」

翌日の朝、門立ちを前に、皆が円陣を組んでくれた。

そして、「やったわかっ!」「やったわかっ!」「やったわかっ!」という大きな掛け声とともに、柔らかな朝日に向かって、(のぼり)を高らかに突き上げた。

暖かな順風が、やさしくはためかせた。

〈完〉

ページの一番上に移動します